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こきょうしちじゅうねん
故郷七十年
柳田 国男
「神戸新聞」神戸新聞社、1958(昭和33)年1月9日~9月14日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 257,350 字 · 507 页
ところが、二十二歳の大学生の兄はジロリとそれを見て、笑いもしなければ、冷かしもしない。私はきまりが悪くなって、いきなりこんな歌を吟じてその場を胡魔化したのである。
敷栲の枕の下に太刀はあれど鋭き心なし妹と寝たれば
これは香川景樹の有名な歌だが、兄はそのときそれを知らなかった。「誰の歌だい」「知らんのですか景樹の歌だんがな」「へえ、そんな歌作ってるかね」兄ははじめてそれを知ったのである。
兄の下宿はいま東京湯島の順天堂のある地続きで、主人は大橋という名古屋の旧家の人だった。大変な蔵書家で、その本の中に景樹の本もあってそれを兄は見ているのだが、一つ一つ味わってまでは見ていなかったのであろう。
私は早熟で子供ながらに歌をやっていた。私の家に鈴木重胤の『和歌初学』というのがあり、四季四冊のほかに恋、雑の上・下など七冊になっていたが、この歌は雑の下に「枕」という題で収められていたものである。
こうした一場の滑稽劇があって、私たちは横浜に着いた。遠い沖の方からハシケで上陸して、駅までは少し離れていた。夜の八時ごろ、伊達な兄のことだから、学生のくせに二等車にのり込んだが、ほとんど車内は空いておって、子供二人をつれた女中の三人がいるだけ。