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さぶ

さぶ

山本 周五郎

「週刊朝日」 1963(昭和38)年1月4日号~7月5日号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 210,521 字 · 415 页

青空文庫

雨のあとだからだろう、少し濁って波立っている海を見やりながら、そのときも与平のほうへは眼を向けなかった。

「八年まえ、庚辰年の九月三日のことでした、ええ」と与平は語った、「その年の六月に新しく銀が鋳替えになって、銭相場の上り下りがひどく、私の店などもかなり大きな損をしたものですが、悪いことは重なるもので、私の仕入れた反物にきず物が三反もありました、伊勢崎の安い紬縞で、一反は女物でしたが、染めむらと尺たらずです」

女房は例のとおり毒づき始め、おまえは厄病神だ、いまにこの店を潰す気だろうと罵り、子供たちの見ている前で彼を突きとばした。店のあがり端にいた彼は、土間へ転げ落ちたはずみに頭を敷居へ打ちつけ、鬢のところが一寸ばかり切れた。

「手に血が付いたのを見て、私はくやしさに眼がくらんだようになり、女房に殴りかかろうとしましたが、生れつきというものはしようのないもんで、着物の塵を払い、自分で傷の手当てにかかりました」

口惜しさで全身がふるえ、あふれ出る涙がなかなか止らなかった。そしてその夜、小僧奉公に来たときから、婿になって十年以来のことを思い返し、これでは生きているかいはない、いっそ女房を殺して自分も死んでしまおう、と決心した。