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さぶ

さぶ

山本 周五郎

「週刊朝日」 1963(昭和38)年1月4日号~7月5日号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 210,521 字 · 415 页

青空文庫

彼は下から見あげる位置にあって、その女が片足から岩風呂へはいるのを見たとたん、思わず母親の首にしがみついて「お化けだよう」と悲鳴をあげた。そのときの印象が強烈だったのだろう、ずっと大きくなってからも、女の顔をみつめていると、その口が急に耳まで裂け、赤い舌をぺろっと出すように思える。夢の中では母親の口さえ裂けるのだという話を、栄二はもう幾たびも聞いていた。

「おかしなことに、おとよだけはちっともこわくなかった」と清七は続けた、「初めて口をきいたのが夜だったからかもしれねえ、やっぱり南の海っぱたで、月夜だったっけ、まだ護岸工事をするまえだから、石垣の崩れたところから波が打込んで、砂の窪みが幾つもできていた、そうさ、その窪みへはいると、はたからは姿が見えなくなったもんだ」

栄二は手鎖の音をさせながら蚊を追った。そこは大川に面した長屋の空き部屋で、二人はもう十余日もいっしょに、その部屋へ押籠められていた。あの騒ぎのあと、栄二は役所詰元締同心の岡安喜兵衛に会い、詳しく事情を話して、清七に穏便の沙汰のあるように懇願した。清七の暴行で下役人の二人が手と足の骨を折られ、止めにはいった油絞りの人足が一人、頭を割られた。