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さぶ

さぶ

山本 周五郎

「週刊朝日」 1963(昭和38)年1月4日号~7月5日号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 210,521 字 · 415 页

青空文庫

倒壊する建物の庇あたりが、彼の背をかすったほど危ない一瞬であった。外は足のくるぶしを越す水で、突風の来るたび、その水面から白くしぶきの飛ぶのが、闇をとおしてはっきり見えた。――長屋の他の部屋の者たちも出ていて、なにか叫びあう声はするが、風の唸りに消されてまったく聞きとれなかった。役所も見張小屋もまっ暗で見えず、水はぐんぐん増していて、もう脛の半ばにまで深くなった。

「手を貸してくれ」と誰かが叫んだ、「倒れたうちの中に誰かいるぞ」

栄二は振り向いた、「本当か、誰だ」

「誰だかわからないが、おれのうしろにいたやつが一人逃げおくれたんだ」とその男は云った、「それ、声がするだろう」

風は南なのに、長屋は西南のほう、つまり手前のほうへ倒れていた。ちょうど押している力がゆるんだとたん、北東へかしいでいたのが前のめりになったという感じであるが、耳を近づけてみると、倒れた屋根の下から、人の喚いている声が聞えた。

「手を貸してくれ」と栄二が叫んだ、「人がつぶされてるんだ、早く」

幾人かが駆けよって来た。

「おい、しっかりしろ」と栄二は壊れた建物の下へ向って絶叫した、「いま出してやるぞ、しっかりしろよ」