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さぶ
さぶ
山本 周五郎
「週刊朝日」 1963(昭和38)年1月4日号~7月5日号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 210,521 字 · 415 页
ではないと思った、と云い、そこで平蔵はむっつりと黙りこんだ。
祝言についての打合せを済ませ、筆屋の店を出てほんの一丁ばかりゆくと、晴れている空から雨が降ってきた。見あげると、青い空に白と鼠色の雲が重なりあい、ひと固まりの黒い雨雲が、南のほうから速い速度でひろがりつつあった。
「夕立が来そうだな」と栄二がその雨雲を見ながら云った、「いそごうか」
「それよりおらのうちへ寄ろう」
「――おまえのうちだって」
「おらが手を打っといたうちよ」とさぶが云った、「そこのろじの中だ、どぶ板に気をつけてくんな」
右側が田圃で、その向うに上野の丘と森が見えた。田へ引く水だろう、細い流れにひと跨ぎの橋があり、それを渡って、左側にある八百屋の角を、ろじへとはいった。この辺は火事もないのか、両側から庇の触れあうような長屋は古く、軒も柱もかしがっているし、どぶ板から溢れ出る汚水が、異様な臭気をろじいっぱいにふり撒いていた。
ひでえところだなと、栄二が思わず顔をしかめたとき、雨がうちまけるようなひどい降りになり、さぶは長屋の一軒へとびこんだ。
「いるかい、おせえちゃん」彼は障子の向うへ呼びかけながら、栄二に手招きをした、「おせえちゃん、おらだ、さぶだよ」