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しん・すいこでん
新・水滸伝
吉川 英治
「日本」講談社、1958(昭和33)年1月号~1961(昭和36)年12月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 684,899 字 · 1374 页
「いうな、たれが億劫だといった。ただ不便と感じただけのこと。よしよし、あす一日潔斎して、われ一人、天師の仙家へまかるであろう」
彼の意気たるや旺であった。その朝は、星の下に、水垢離をとり、白木綿の浄衣を着て、黄布のつつみを背中へ斜にかけて結んだ。内に宸筆の勅願をおさめたのだ。そして、銀の柄香炉を片手に、折々、香を焚いては、「六根清浄」を口にとなえ、身に寸鉄を帯びるでもなく、白木の山杖一ツを力に、あまたの道士に見送られて、上清宮を出立した。
――が、禁門軍の雄、洪大将ほどな男も、そこから奥の山ではまったくへばッた。第一夜は、樹海の底の谷川を枕として寝ね、第二夜は、斧の刃のような天空の峰で身を横たえた。しかも、ゆくての千峰は、まだまだ嶮しい。
やがて、降ればまた深い渓音水声、昼か夜かも、わからなくなっていた。猿になぶられ、狼に踵を嗅がれ、ただ蔦かずらの中の道標を捜しては、それをたよって行くしかない。やっと、太古の森林を出たと思うと、あ――と仰がれる絶壁だし、めぐれば、瀑布のしぶきに吹きとばされ、攀じれば、磊々の奇岩巨石に覗き下ろされる。
それのみか、彼は、牝雄二疋の大きな虎に出会って、あやうく、虎の餌食にされかけたり、この世にはありえぬような大蛇の鱗光に胆を消したりして、そのつど、無我夢中で逃げまろんだ。