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さんごくし
三国志
吉川 英治
06 孔明の巻
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 161,356 字 · 323 页
蔡瑁は、心のうちで、
「わが事成れり」と、早くも座中の空気を見廻していた。すると、大勢の中にあった伊籍が、玄徳にそっと目くばせして、
「まだご正服のままではありませんか。衣をお着かえなされては如何」と、囁いた。
意を悟って、玄徳は、厠へ立つふりをして後園に出て見ると、果たして、伊籍が先に廻って木陰に待っていた。
「今やあなたの一命は風前の燈火にも似ている。すぐお逃げなさい! 一瞬を争いますぞ」
伊籍のことばに、さてはと、玄徳も直観して、すぐ駒をといて引き寄せた。
伊籍はかさねて、
「東門、南門、北門、三方すべて殺地。ただ西の門だけには、兵をまわしてないようです」
と、教えた。
「かたじけない、後日、生命あればまた」
云いのこしたまま、玄徳は後ろも見ずに走りだした。西門の番兵が、あッとなにか呶鳴ったようだが、飛馬の蹄は、一塵のもとに彼の姿を遠くしてしまった。
鞭も折れよと、馳け跳ぶこと二里余り、道はそこで断たれていた。ただ見る檀渓(湖北省・襄陽の西、漢水の一支流)の偉観が前に横たわっている。断層をなした激流の見渡すかぎりは、白波天にみなぎり奔濤は渓潭を噛み、岸に立つや否、馬いななき衣は颯々の霧に濡れた。