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さぶ
さぶ
山本 周五郎
「週刊朝日」 1963(昭和38)年1月4日号~7月5日号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 210,521 字 · 415 页
「まずいことに伯翁が書をやるのだ」と岡安は前置きなしに云った、「――役所でおまえだけ別扱いをすると、つねづねひがみをもっている者があって、それが伯翁に耳うちをしたらしい、私の知らないうちに奉行へ訴えが出てしまった」
伯翁とは心学教師の立松のことだ。これも報酬なしで講義に来ているのに、自分をさしおいて人足が字を教えると聞いたため、ひどく自尊心を傷つけられたとみえ、奉行の成島治右衛門に強く申し入れた。文字を習うのは初めが肝心であり、単に字を覚えるだけでなく心構えが大切である。明窓浄机とはいわないまでも、心身を清め、無念無想になって筆をとらなければならない。ごたごたした人足部屋などで、作法もなく勝手にやるのは、却って害になるばかりである、と主張したそうであった。
「それにも一理はあるし」と岡安は続けた、「この部屋よりも、役所の座敷のほうが静かでいいだろう、そう思わないか」
「みんながいくかどうかですね」と栄二が答えた、「この部屋だから気やすく筆を持ちますが、役所までいくとなると、おそらく続かないんじゃないかと思いますがね」
そこで栄二がふきだし、声をあげて笑った。