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さぶ

さぶ

山本 周五郎

「週刊朝日」 1963(昭和38)年1月4日号~7月5日号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 210,521 字 · 415 页

青空文庫

「じいさんを呼ぶなんてお笑いぐさだったな」と彼はあるきながら呟いた、「――親代りだなんて云って、もしも呼び寄せていたとしたら、与平さんにまで苦労させるところだったぜ」

冬にはいった空はよく晴れていた。寺の多い浅草地内にかかると、それらの土塀や白壁が、日光をいっぱいにあびて眩しいほど明るく、その明るさは栄二の頼りない気持をいっそう暗くするばかりだった。

「もう帰らなくっちゃいけねえな」と彼は呟いた、「おすえのやつが心配しているだろう、――だが帰るのはいやだな」

うしろから話しながら来る二人の男の声がした。

「ふしぎな男ですよ、あのげんそうというのはな」と一人が云っていた、「――なにかしようと思うと必ず、それより先にしなければならないことを思いだすんだそうです」

「あれはいそがしい男だ」

「部屋のまん中に硯が置いてあります」と先の男が続けた、「あれはね、硯を洗おうとして立ったところ、ふとそこで薪を割らなければならないことに気がついたんですな、そこで硯をそこへ置いて薪割りにいった、薪割りが済むとなにかまた用を思いだす、お勤めだとか斎だとか、まあいろいろあるでしょう、檀家の客があるとか、本堂へ呼ばれるとかね、――このあいだ幾たびも硯を洗おうとするが、そのたびごと、ほかにいそぎの用があるのを思いだすというわけです」