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みやもとむさし
宮本武蔵(一)
吉川 英治
Read 宮本武蔵(一) (みやもとむさし) by 吉川 英治 (よしかわえいじ) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 231,525 characters · 463 screens
花御堂
一
「おや?」
きのう朱実と後家がひとまとめにしていた荷物がない、衣裳も、履物も失くなっている。第一、その母娘のすがたばかりでなく、又八が見えないのだ。
「又八っ。……おいっ」
裏にも、小屋の中にも、いなかった。ただ開け放しになっている水口のしきい際に、後家のさしていた朱い櫛が一枚落ちていただけである。
「あ? ……又八め……」
櫛を鼻につけて嗅いでみた、おとといの晩の恐い誘惑をその香いは思い出させた、又八は、これに負けたのだ、なんともいえない淋しさが胸をつきあげた。
「阿呆っ、お通さんを、どうする気か」
櫛を、そこへ、たたきつけた。自分の腹立たしさより、彼を故郷で待っているお通のために泣きたい気がする――
憮然として、いつまでも、台所にぶっ坐っている武蔵のすがたを見て、きのうの野馬が、のっそりと、軒下から顔を出した。いつものように、武蔵が鼻づらを撫でてやらないので、馬は、流し元にふやけている飯粒を舐めまわしていた。
花御堂
一
山また山という言葉は、この国において初めてふさわしい。播州龍野口からもう山道である、作州街道はその山ばかりを縫って入る、国境の棒杭も、山脈の背なかに立っていた、杉坂を越え、中山峠を越え、やがて英田川の峡谷を足もとに見おろすあたりまでかかると、