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うえすぎけんしん

上杉謙信

吉川 英治

「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页

青空文庫

虚相実相

伝右衛門は、つと席を退がった。

「御芳情にあまえた。充分にいただきました。御君側へ、よろしくお伝え下さい」

「お帰りになられますか」

「ここは免されざる私の草くさ。長居は惧れがあります。……なお、また、最前からの其許のお志には、何と申すべきか、お礼のことばも弁えぬ。甲冑を解けばそれがしとて、世の親とかわり無き者でござるが、確と、物の具を体している身には、たとえ眼の前に、親の死、妻の涙、子の血しおを見ようとも、何の覚えはありません。自身の合戦があるのみです。――従って、今よりお断り申しておくが、今日、ここに御辺と酌み交わして、明日犀川、千曲の流れの畔で、御辺と兵馬のあいだにまみえようとも、初鹿野伝右衛門が槍先は決して鈍るものではござらぬぞ」

「御念には及ばぬ。その儀なれば、鬼小島弥太郎とても」

ニコと笑って、彼も起った。

「――では、麓までお送りしましょう」

虚相実相

日傘を翳した使者舟は、ふたたび千曲の水を渡って、対岸へ帰った。

遥か、雨宮の渡し一帯にかすんでいる甲軍の陣気は、いかに使者の帰りを待ちぬいているか、その旗叢に鳴る風の音にも知られるほどだった。