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うえすぎけんしん
上杉謙信
吉川 英治
「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页
菊一枝
理由は、何でもない。
倦怠や郷愁やまた怯気などという果てしない迷いは、生命の安全感が比較的多いところに身を置いているときほど執拗に作用して来るのだった。最先鋒よりも中軍、中軍よりも後陣といったふうにである。
だが、この妻女山には、先鋒も銃後もない。敵の海津城と相距つこともわずか一里弱でしかなかった。晴れた日、その山から望めば、かの白壁も、かの旌旗も、あざやかに見えるのだった。今朝ある生命も夕べは知れず、夜に結ぶ草間の夢も、あすは知れない生命の露のきらめきに似ている。――ふしぎとそれを観じるのは事なき平常の日の甘い観念にほかならない。ここまで迫るとまったく箇々の生命も研き澄ました白珠のようになっていた。あらゆる迷執もふり落されてかえって洒々落々たる天真な笑顔の中に生きていられるのだった。いわんや、この秋、ただ今日のため、不断に磨き競って来た越後上杉の武者輩が、この期においていのち以上のいのちとする士の「道」を鈍らすわけもない。
菊一枝
「短気すな。権六」
「だいじょうぶで」
「どれ。おれが代ってやろうか」
「いえ。もう少しですから」
権六は、身を逆しまにして、自分で掘った坑の中に首を突っこんでいる。