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うえすぎけんしん
上杉謙信
吉川 英治
「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页
機微寸前
ぐわうんと、音波は広い野を縫い、霧を揺すり、ここの木立までを貫いてくる。
「離せっ。ここをどこと思う」
伝右衛門は脚をあげた。
鶴菜の背へ桶の水がかかった。わがむすめよりは、その水のほうが、遥かに大切であるかのごとく初鹿野伝右衛門は見向きもせず、杉の木の間を駈け去った。
機微寸前
鰹木の立っている檜皮葺の一宇が見える。八幡神社の古い拝殿だった。それと背中合せに南面して、かなり広い地域にわたって諸所に陣幕が張り繞らされている。
信玄のいる本営は、ここら辺から方一町に及ぶ全部がそれといっていい。どこの、どの幕囲のなかに、信玄その人が床几をすえているのか、旗じるしや馬簾だけを的に捜したのでは分らないほど、同じような幕営がいくつもあった。
「よい水を求めて参りました」
初鹿野伝右衛門は、その一つへ身を潜らせた。そこには明らかに信玄の姿があった。
床几を空にして、信玄は立っていた。彼の満身には戦気が立っている。夜来の烈しい血しおのうごきが、自然、口腔を渇かせて来るのであろう。彼はさっきから頻りに一杯の水を欲しがっていたのである。足軽でも奔らせるべきではあるが、主君の飲料水となると小者では心許ない。