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うえすぎけんしん
上杉謙信
吉川 英治
「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页
空文一灰
空文一灰
そのころ、甲州の精鋭が、或いは隊伍し、或いは分散して、北へ北へと動いていたことは頻りなものであった。
大軍団の移動は、当然、四隣を刺戟するからである。ちぎれ雲のように、八ヶ岳道、諏訪道などから、善光寺方面へさしてゆく人馬は、ことごとくそれだったが、この方面に監視を怠らない越後の謀者も、
「はてな?」
ぐらいで、その目的を不覚にも観破できなかった。
彼等が気づいた時は、世間一般も同時に知っていた。それは青天の霹靂にも似て世の耳目を愕かしたからである。
「すわ。また甲越のあいだに」
巻雲のように揚った戦雲の突然に、その理由も汲めず、百姓はただ往年の恐怖をあらたにしていた。
場所は、野尻湖の東南で、越後信州の国境にあたり、山地ではあるが、北するも、西するも、南するもここを分岐点とする交通の要衝で、割ヶ嶽の嶮に拠って、越後勢のたてこもっている一城がある。
割ヶ嶽の城。
ここの圧えは、越後にとっても絶対的なものであると等しく、甲斐の武田家にとっても、最大価値をもって見られているものだった。
もし、武田方に、一朝、ここを奪われれば、越後軍は東進南出すべて封じられる運命におかれなければならないし、越後によってそれが扼されているかぎり、甲山の猛虎信玄も、ついに野尻湖以北――裏日本への展開は将来に望み難いものになる