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うえすぎけんしん

上杉謙信

吉川 英治

「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页

青空文庫

煩悩の鴨

煩悩の鴨

弥太郎が示した物は、お濠の鴨だった。鴨の喉首を握って顔の上にさしあげて見せている。

もちろん、鴨は死んでいる。――そういえば今し方、雪風のなかで鉄砲みたいな音がした。ここの大土間に懸けてある鉄砲を持出して、一発に仕とめて来たものかもしれない。

「たいへんな事をやりおった……」

どの顔も、どの顔も、蒼白になってしまい、それに食慾を感じるどころではない。なぜならば、お濠際の高札にも、

鴨捕ること厳禁

と、はっきり書いてあるし、日ごろから主君の謙信のことばにも、

「――濠の水禽も、要害の一ツ」

という事を聞いている。もちろん犯す者は死罪と、先代の主君のときから極まっているものである。

弥太郎は、台所の方へ通りながら、しいんとしている連中を見下ろして、

「誰か、鍋をかけろ。そのまに毛をむしって、おれが料理してくる」

といった。

忠実に、彼は、台所の外へ出て、毛をむしり、肉と骨をほぐして、やがて大皿に盛って来た。

けれど、もう誰も、そこには居なかった。

「……どうしたんだ、皆は」

と、呟いたが、べつだん怪しもうともせず、ひとりで鍋をかけて、ひとりで食って、そのまま寝てしまった。