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うえすぎけんしん
上杉謙信
吉川 英治
「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页
狼
……所詮、お館に追いついても、この体では、かえって殿の足手まとい、御奉公のすべも尽きましたれば、お別れすると……」
「お。そして」
「呀と……思う間に、それがしの手をぎ離し、肩を離れて、激流のなかへ自ら溺れて行きました。呼べど、叫べど、もう影もなく声もなく」
「……そうでしたか」
左馬介は、面を斜めに上げたまま、月に答えている。
謙信は黙々、手綱をすすめた。この暁には、一万三千の兵陣に囲繞された総帥が、孤影わずか二箇の家臣とともに戦場を去ってゆくのである。そも主従の感慨はどんなであろうか。戦場は天地を一宇の堂とした大きな修行の床ともいえる。月に白い謙信の面には、寸毫といえども、敗けたという色は見えなかった。むしろその唇元には、一業を仕果したあとのさっぱりした寛ぎと、次の戦いに対する構想に他念ないかのような含みすら窺われる。
狼
「や、明りが見えます」
漸く、民家を見たかと、左馬介が歩みながら、馬上へ告げると、
「いや、農家の火ではあるまい」
謙信は顔を振った。
そういわれてみると、ただの燈火や、農家の炊ぎの火にしては、ちと火光が大きすぎる。
「なるほど、仰せのとおり、大焚火している者があるようです」