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うえすぎけんしん

上杉謙信

吉川 英治

「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页

青空文庫

百足の旗々

「深覗きいたして来い」

と甲軍の哨戒地帯へ入り込ませていたという事実もある。

深覗きというのはただの物見程度でなく、まったく敵の中へ入って来る「忍び」の業で、いわゆる変遁隠形の術を要する生命がけの捜りである。

霧は深し、未明の天地。味方の人影や陣々の幕すら朧な中では、そうした野鼠にも似た味方ならぬ人間もどこにどう潜んでいたか、決して予測はつかなかった。

もっともそれに備えて、ここの中軍、信玄のいる所でも、今や例の甲軍最大な象徴としている孫子の旗も法性の幟も、また諏訪明神の神号旗も、花菱の紋旗も、すべて秘してしまって、

(ここに信玄あり)

などと敵方へ一目で知れるような迂濶な構えはしていない。

百足の旗々

これは余談だし、ずっと後の事でもあるが、織田信長が桶狭間で義元の中軍へ突撃したときでも、その営中に斬り入るまでは義元の居どころは的確に知れなかったのである。あなたこなた姿をさがすうちに、溜塗の美々しい輿があったので、初めて、ここと信念され、信長の部下たちは一層勇気づいて功を競い合ったというほどである。

そのほかにも、人いちばい要心ぶかい信玄には、八人の影武者があったなどともいい伝えがあるが、それまでにはどうあろうか。