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うえすぎけんしん
上杉謙信
吉川 英治
「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页
動脈・静脈
遅し、遅し、武田軍。
謙信はそう微笑んでいるであろう。彼の陣払いは、ゆうべまだ月光のあるうちに行われていた。静かに、きれいに、手際よく。
兵は枚をふくみ、馬は唇を縛し、月下、山をくだって、千曲川の渡渉にかかったころ、漸く、月は没していた。長柄の刃先、太刀の鞘を暗い秋の水にひたしながら、全軍の長蛇は粛々と、狗ヶ瀬の対岸へ越えていた。
「近江、近江っ」
と、謙信はふと、早瀬の前に馬をとめた。そして、甘糟近江守を後続隊の中から呼んで、
「――寄れ。ここまで」
と、自身の鞍わきまでさしまねき、馬上から身をまげて、何か彼の耳へささやいた。
動脈・静脈
「――其方の一隊は、われらの本軍と別れて、ここより数町先の上流、十二ヶ瀬を渡って、この千曲の北岸、小森附近に陣をとれ」
「はいっ」
「そして、この広い闇の野と、深い霧の河原とを、悉く敵の影とも思って、注意を怠るな、うろつく物見と見たら一人も討ち洩らすな」
「承知いたしました」
「甲軍の主力は、おそらく広瀬の下流を渡り、八幡原へうごき出たものと思わるる。――彼の左翼、すなわち其方の陣する所から北東の平野一面こそ、もっとも敵に接近する地域となろう。