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うえすぎけんしん
上杉謙信
吉川 英治
「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页
彼が太鼓を用いたので、此方はわざと鉦を用いたものだともいう。
いずれにせよ、いまや明らかに、相互の敵を相互に見た。眼に、耳に、足の先に、総毛立つ全身の毛穴に。
いつか。空には、陽がのぼっている。
陽の位置でみると、時刻はちょうど朝の卯の下刻(午前七時)ごろかと思われる。霧はまだ霽れきらないが乳白色に透明を帯び、湯けむりのように乱流騰下してその膜の薄いところへかかると、川中島いちめんから、犀川千曲はいうまでもなく、遠い妙高、黒姫の連山にいたるまで、明るくて朧なすがたを浮き出させた。
「近いぞ。もう近いぞ」
「四、五十間」
「いや、三十間ほどしかない」
先陣のまたその最も前方に這い屈んでいるのは、山県三郎兵衛麾下の一小隊の鉄砲組だった。
「……まだ。まだだぞ」
弾薬を装填して、わずかの窪地の蔭から、銃口を敵へ擬しながらも、距離を考えて、容易には放たなかった。
「二十間まで待て。思いきって、近寄せろ」
組頭だろう。後からいう。
狙いすましたまま、構えている銃手にとっては、実に長い。
そうしている間も、ちょっと油断すると、秋草のしとどな露に、火縄は消してしまうし、弾薬は湿めらしてしまう。