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うえすぎけんしん

上杉謙信

吉川 英治

「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页

青空文庫

蕎麦の花

もうここは戦場でない。世間であった。

蕎麦の花

謙信が越後路へ落ちてゆく途中、この安田の渡しか、ほかの所であったか、黄昏頃、道へかかったとき、

(行く手の彼方に、川が二筋見ゆるようだが、千曲の川筋ならば、ふたつあるわけはない。道をとりちがえたのではないか)

と、いったところ、和田喜兵衛が笑って、

(お館にもさすがお疲れとみえまする。あの一筋は川ではなく、蕎麦の花がいちめんに咲いているのでございます)

と、答えたとか。

そんな話がこの地方に残されて、後々まで語り草になったらしいが、これは何かの誤謬らしい。

陰暦九月十日過ぎには、もう蕎麦の花ざかりは遅すぎる。こんな口碑が伝わったのは、この戦後、春日山へ帰るとすぐ、和田喜兵衛が変死したところから起ったものと思われる。

途中の食中りか何かであろう。春日山城へ辿りつくと、喜兵衛はひどく吐瀉をして死んだ。謙信が、

(不憫な)

と、手ずからその口へ薬を啣ませてやったというにかかわらず、息をひきとってしまった。

それが誰とはなく、和田喜兵衛は血を吐いて死んだと伝えられ、その原因は、謙信ほどの大将が、蕎麦の花を川と見違えたというようなことをいったのは、一代の恥としてもよい。