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うえすぎけんしん
上杉謙信
吉川 英治
「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页
「こなたの家に、鶴菜という若い女子が世話になっておろうが。わしは鶴菜の身寄りのもの。甲府の伝右衛門が迎えに来た。そういうてくれぬか」
「はい。……かしこまりました」
禰宜の妻は、手を拭きながら、後退りに彼の前を去った。そして急に台所口から奥へ駈けこんだ。
家の中で、鶴菜の声がした。鶴菜はまだ弾傷が癒えないで床に横たわっていたが、父の伝右衛門が来たと聞くと、濡縁まで転び出して来てさけんだ。
「お父さまっ」
この日は伝右衛門もいつぞやのような怖い顔の人でなかった。つかつかと歩み寄るなりその腕に、このいじらしいものを深々と抱いて、
「むすめ。むすめ……」とのみでしばし何のことばもない。
父娘の者が、人目もなく、そこに相擁しているすがたを奥から眺めながら、禰宜の妻は、いぶかしげに、懐をあけて、児に乳ぶさを与えていた。
呉越の道
次の日、ひとつ駒の背に、父娘は乗って、いわゆる「信玄の棒道」を、初鹿野伝右衛門は甲府へ向ってゆく。
身はなお具足に鎧っていたが、主君に許されて今は鶴菜の父となりきっている彼だった。
一城を賜い、一郡を受けるよりも、彼として、これは無上な主恩と感じている。