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うえすぎけんしん

上杉謙信

吉川 英治

「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页

青空文庫

「大炊。使者は見えておるか」

脇息へふかく肘をのせながら、信玄はかたわらの跡部大炊へ向って、その耳へ口を寄せるほど近々と顔をさし伸べてささやいた。大炊もまた小声で、

「いえ、越後の使いが、使者の間へ通りましたときは彼方のお小姓部屋で鈴を振って、お知らせすることになっております」

「まだ鈴は聞えんな」

「されば、まだお次へ、通って参りませんから」

「使者のすがたも見たいが」

「御覧になれましょう」

と、大炊は立って、すでに二寸ほど開いている大襖のさかいを、更にもう少し開けてもどって来た。

ここは城中の毘沙門堂とよぶ一閣である。堂作りの建物であるが、信玄の居室、書院、評議の間、使者の間など悉く備わっている。先頃からこの国へ特使として来ている越後の家臣斎藤下野なる者を、きょうここへ呼んで、あらかじめその面だましいを覗き見してから対面しようというのである。他国の使臣にたいしては儀礼的な鄭重を極める半面に、ままこういう非礼もよくやるものらしい。――殊に一方は優越を自負して役に臨む場合には。

こんどの如きも、信玄としては、かならずや謙信が赫怒して、上州から碓氷方面へ伐り入って来るなり、或いは、手薄な信州方面にたいして、報復手段をとって来るものと予想していた。