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うえすぎけんしん
上杉謙信
吉川 英治
「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页
ここまで来ると、道はまっ暗だった。ただ前面に、壁のような山岳が折重なっていることと、附近に、渓流の末らしい流れのあることだけが、水音で察しられる。
「まだ、まだ、わからん」
下野の返辞である。
おたがいの顔も見えない。そのくせ、星はキラキラ仰がれるのに、星明りも透さないほど、闇が厚いのである。
「たれも、落伍はないか」
同じ声が、案じていう。
副使の黒川大隅が、
「各、名をいえ。名をいえ」
と、随員にいった。
越後を出て来るときから、正使の斎藤下野を初めとして、副使以下、小者まで入れて、十名の一行だった。
「――おります。十人、一人も欠けなくおります」
やがて、誰かが、答えるのを聞くと、下野は、
「そうか」
と、安堵したようにうなずいて、しばらく沈黙していたが、やがて駒を下りた。
「――これから先は、雨乞、鞍掛、鳳来ヶ嶽と、山また山ばかり。それを避けて、八ヶ岳のふもとを、真っすぐに、一条の早道はあるが、これは信玄が、度々国境へ出馬するため、拓り開いた道で――信玄の棒道――と呼んでおるもの。当然、諸所に柵や砦があって、通ることはできない」
下野は敵国の地理を、わが家の庭のように説明した。