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うえすぎけんしん

上杉謙信

吉川 英治

「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页

青空文庫

そして、こうもいった。

「御主君には、往年、この弥太郎が、甲府の御城下にまぎれこんでいた時、あなたの為に、難なく国外へ出ることができたという――あの事を、てまえから聞いて、知っておられる。それ故、わざと御接待に出して、旧情を温めよとの、有難い思召しかと思われます。……改めてお礼をいう。あの節は、お見のがしにあずかって忝うござった。お蔭に依って、以来越後に帰国、こうして御奉公しています」

「いやいや、お礼など、かえって迷惑じゃ。御辺はどう受け取っておられるか知らんが、伝右衛門としては、かりそめにも、敵方の間諜たる者を、見のがした覚えなどはない。――ただ貴公が、姿を変えて甲府の鍛冶の家に火土捏ねをしていた姿は思い出される。けれど、そういう例は、敵味方、まま有りがちな事といえる」

「そうそう、その御一言で思い出した。あなたには、幾人の御息女がおありですか」

「むすめ共のことをお訊ねか」

唐突なのに愕いたのであろう。伝右衛門の眼にそんな光が見えた。この戦場の空、しかも使者として臨んでいる敵陣の中、五体のどこをさがしても全く無い憶いを、強いて求められた狼狽といえる。