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うえすぎけんしん
上杉謙信
吉川 英治
「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页
一軒家
もちろん天はまだ暗い。
その暗いのと、霧のために、このときまだ、越後、甲州、両軍とも気づかなかったが、すぐ前方の八幡原には、すでに武田の大軍陣を布き、信玄の牙営とさだめた八幡神社の周囲には、旺に壕を掘り、土塁を築きなどし始めていた時分であった。
その相互の距離は、勿論、後になってから分ったことではあるが、両軍の先鋒と先鋒、わずか十町ほどしか距っていなかったのである。
一軒家
「おや。……何であろう?」
鶴菜は、枕から面を擡げた。
病んでから二十日余り、寝床のうちに籠りきりだったせいか、旅焦けに小麦色していた頬も頸も抜けるほど白くなっている。
「おお、馬の嘶き……あの人声……ただ事ではない」
耳を澄ましていたが、やがて恟っとしたように、どこかしら痛むらしい体を無理に寝床の上に起して、
「神主さま。神主さま!」
と、次の部屋へ呼びたてた。
ここは八幡原の真っただ中、一叢の木立に囲まれている一軒家だった。家のそばには蒼古とした鳥居がある。そして日頃は、老いたる禰宜と家族が住んでいた。
二十日ほど前の黄昏、鶴菜は千曲川の岸で弾に中って倒れ、居あわせた馬糧刈りの人々に担われて、ここの社家まで救われ来たのであった。