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うえすぎけんしん

上杉謙信

吉川 英治

「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页

青空文庫

「ここ篤と、利運の御思案が大事と思われまする。武田家の危機、焦眉にありというも過言ではありませぬ」

と、兄にも決心を促した。

信玄は、かえって、

「典厩か。何しに来た」

と、落着きはらい、信繁が、眼に涙をたたえながら、

「今生のお別れに――」

と、一礼というよりは、涙をかくすためにうつ向くと、信玄はくわっと睨めつけて、

「汝はまだ、ここの戦場に、肉親の者がおるなどと、胸のどこかに、覚えておるのか。信玄には大切な二万の兵あることのほか、弟など、おるともおらぬとも、考えたことはない。要らざる情、陣務の妨げ、はや立去れっ」

と、叱りつけた。

「不覚でした。おゆるし下さい」

典厩は、涙をはらって、兄の本陣を出、馬をとばしていた。すると、

「信繁公におわさずや」

と、後ろで、声をかける者がある。見まわすとここは山本勘介道鬼の陣前だった。

「おお、道鬼か」

「はや乱軍とみえまする。かかる中にはからずも、おすがたを拝し得たのは、尽きせぬ今生の御縁。多年、御厚恩をこうむりましたが、入道も今日は、長のおわかれを告ぐる日と存じます。御武運、お久しくおわせ」

ここの陣地も、はや前方の柵は突破され、敵とも味方ともわかぬ死屍は算を乱し、槍の折れ、踏みしだかれた旗さし物など、凄愴の気はみちている。