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うえすぎけんしん

上杉謙信

吉川 英治

「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页

青空文庫

はつ雁

はつ雁

八月十六日、犀川、千曲川を抱いたひろい善光寺平の夜は、昼の残暑を一掃して、風も冷ややかな星月夜だった。夜に入っても、渺として、仄明るかった。

謙信の本陣は、中腹の陣場平に置かれている。

兵は、飯を炊ぎ、馬に飼糧をやっている。

「ぞんぶんに、こよいは寝ておけよ」

彼は、左右の将士にいい、自分の肉体へも告げていた。

けれど、心ある幕将たちは、甚だ心もとない顔いろをしていた。うかとは眠られぬ――というような緊張を顔から容易に解かないのである。

海津の敵城は、すぐ眼のさきではないか。

しかも、この妻女山の地位たるや、余りに敵地へ深く入りすぎている。

ひとたび、高坂弾正が、信玄味方の信濃衆を糾合して、同時に、その城戸を開いて襲いかかって来るならば――事、決して容易ではない。

いわんや、長途の疲労をもつ、今の虚を衝かれたら。

誰も、そう思った。そう考えられるのが、常識だった。

その常識から推して人々は、

「このたびに限って、お館の軍配には、解しかねるものがある。いつにない御浅慮。心もとない事ではある」

と、ひそかに憂えた。

だが、謙信には、この危地も、すぐそこの海津城も、眼中にないもののようだった。