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うえすぎけんしん
上杉謙信
吉川 英治
「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页
敵府脱出
と、口をむすんで、瞑目、ややしばらくの後、
「そもそもこのたびの戦端は、非義彼にあり、正義われに有り、ひたすら謙信が今日を待つあいだも、汝らをはじめ全軍のものは、この謙信が容易に起たぬを、憤懣していたほどではないか。ここに至って、安全を恃む陣地に拠らんとは、誰も心から思うてはおるまい。ただ必勝を期しているのみであろう。必勝を期すには、必死を期すこと当然である。――こう観じて来れば、一見、不利無謀にも似るこの陣所も、妙機変通のある山とも見えんか。……はははは。まず、こよい寝て、もういちど夜暁の下に大観してみい。犀川の広さ、千曲川の長さ、ここは敵地ながら、ここの眺めはいつも好きだ。わしも早く起き出よう。みな、解ったら順に陣所へもどって眠れ。……何の、海津城、こよいはおろか、明日とても、うごいて来るものか。出て来るものか」
そういい終って、謙信はもう一度、声を放って笑った。
雁の音は、しきりと、雲を縫っていた。
敵府脱出
――つなぎ烽火の警報に、寝耳に水の愕きをうけて、国中、わけても、府館の中心地甲府は、上を下へと、混乱を極めていたその夜――十五日の夜半だった。