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うえすぎけんしん
上杉謙信
吉川 英治
「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页
それは将来へ大志をいだく謙信が彼に承知で失踪をゆるしたものだといわれている。が、主従の黙契があったや否やはべつとして、弥太郎は少なくもそれから二、三年間は諸国の武備や築城などを見て廻った。後にいうところの武者修行をしていたのである。
そして、いつのころからか、甲府にいた。もちろんそんな使命をおびている者としての入国はむずかしい。城下の鉄砲鍛冶の火土捏ねをしていたのだ。左官職にひとしい泥だらけな手をして、筒金を焼く火土を築いたり吹鞴の手伝いなどしていた。
甲館に出入りする武田家の武将が、時々、馬上や平服のままで、この家の前を通る。その中に、初鹿野伝右衛門の眼があった。或る時、彼の屋敷から注文のあった鉄砲を、白あばたの男に届けさせてくれとわざわざ指名でいってきた。
弥太郎は、それを届けた。けれど邸内の者に渡しただけで、その場から山越えで甲州を去ってしまったのである。門の内まで入れば、立ちどころに縄目をうけることを、彼もまた未然に覚っていたからである。
しかし、それだけでも、伝右衛門の情といえば情といえる。彼に、必縛の気があるなら、鍛冶の家を直接包囲すれば遁さなかっただろうし、また後から騎馬の追手を飛ばせば、弥太郎もついに国外へ遁れきれなかったかもしれないのである。