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さぶ

さぶ

山本 周五郎

「週刊朝日」 1963(昭和38)年1月4日号~7月5日号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 210,521 字 · 415 页

青空文庫

「ふ、岡安さんにかぶれたか」彼は暫く考えてから苦笑し、けれどもすぐに首を振った、「――そうじゃあない、岡安さんにかぶれたんじゃあない、こいつはおれの心の中で生れたんだ、これは大事なことなんだ」

あと片づけをして戻って来た与平が、掻巻でも掛けようかと云ったが、栄二はそれには及ばないと答えた。与平はしいてとは云わず、まもなく外へ出ていった。

「いや、よそう」暫くして栄二は、頭にうかんだ考えをふりはらった、「綿文のことはよしだ、あのことは当分のあいだ忘れているとしよう」

だが一つだけ。一枚の金襴の切で、自分の一生がめちゃめちゃになった、という考えかたが間違いだった、ということだけは認めなければならない。人間の一生は、一枚の金襴の切などでめちゃめちゃにされてはならないからだ、と彼は自分に云った。

「ふしぎなことだが、七月のあらしのさいちゅう、こんなことでは死なねえと思いながら、自分がいま生きているということをはっきりと感じた」と栄二はまた呟いた、「――崩れた石垣の下に敷かれ、砂混りの塩水を飲みながら、苦しさのあまりいっそ死んだほうがましだと思ったときも、自分が現に生きているということを、まざまざと感じたものだ」