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うえすぎけんしん
上杉謙信
吉川 英治
「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页
「それも不利、また無謀との御意なれば、このたびの御出陣は、足ならしの儀にとどめ、一応御帰陣あって、また来春を期し、改めて御発向あそばされては如何でござりますか」
「左様な意志はない」
「かかる儀は、やや取越し苦労にすぎるやも知れませぬが、武田方の軍勢はお味方の二倍、その一部を、海津にとどめ、あとの勢を以て、突如に越後領へ駆け入り、万が一にも御本城春日山を取巻きなどいたした場合には……」
「あははは。さもあらばあれ、おもしろき戦になろう。信玄越後へ攻入らば、謙信もまたたくまに甲府を席巻し、彼の甲館へ乗入らんこといと易い業だ。――しかもわが春日山の留守には、なお二万の兵と、一年の矢玉は蓄えてある。何の何の、あの賢しらの信玄が、左様な目先の見えぬことをするものか」
いつか、陽は沈みかけている。陣幕のうちははや黄昏めいた。寒々と落日のこぼれてくる時雨雲の下に、諸将はみな霽れない眉をして立ち上がった。謙信のことばは遂に、その日もわれに策なしに尽きていた。――そしていつか人声もなくなった陣中には、二ヵ所の篝火と揺らぐ夕闇と、時折、木の葉が雨かのように降る微かな音しかしなかった。