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うえすぎけんしん

上杉謙信

吉川 英治

「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页

青空文庫

「初鹿野どの、今、帰られました」

中軍にある信玄へ、こう早口な声がつたえられると、帷幕の空気は俄然色めいていた。伝右衛門はつかつかと通って、信玄とその一族諸大将の床几から遠く平伏した。

「……どうだった」

信玄の問いである。

率直な問いに、率直な答えをもって、伝右衛門は、観て来たところをいった。

「――敵営は非常なる落着き方です。謙信の眉宇にも必勝を期しているかの余裕がうかがわれます。また将士もみなこんどは死を誓って国を出て来たかのようです。陣中の清楚、秩序の整然、一糸の紊れも見えません。以上、綜合して愚察しますに、妻女山の布陣は、決して彼の無謀、無策ではありません。さりとてまた、企画ある兵略とも思えません。――そこでいえることは、無策の策、無法の法ということです。素裸の陣です。捨身の斬込みを構えているものです。さもなくては、あのように、主将謙信の中軍に禅寺のような虚が感じられるはずはありません。虚即実です。何か、そこへまいったせつな、身ぶるいのわくような虚相と実相の両面に圧し挟まれた気がしました。ゆめゆめそれへ夜討朝駈けなどの奇兵を出すべきではありません。