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うえすぎけんしん
上杉謙信
吉川 英治
「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页
車掛り
要は、臨機の気転にあるといってよい。
車掛り
――すわこそ、謙信、山を降りたか。
この愕きは、たしかに、信玄の胸の中にはあった。
けれど、彼の眉は動じない。
しかも直覚していたのである。事態の重大なることとその急とを。
「…………」
浦野民部左衛門の報告を聞き取ってから、一瞬、彼はその大きな眼を、瞼の中でぎょろりと動かした。ふふうむと、鼻腔から洩る息が聞える。そして、右手の軍配の柄が膝を離れたと思うと、
「室賀入道。念のために、もういちど物見をして来い。――謙信ほどな大将が何とて、二十日に余る陣を捨て、一戦も交えず国へ引揚げるはずはない。しかも夜前より千曲を渡りいまなお、この附近に夜を明かしてあるからには、ただの退陣とは心得られぬ。――民部が見違えと思わるる。疾く参って再度、謙信が備えの態を見極めて来い」
と一隅にいた者の顔を指して命じた。
「はっ。見て参ります」
室賀入道は、地侍だ。この辺の地理に詳しい。駒の背にとびつくや否、一鞭加えて馳け去った。信玄は続いてすぐ原隼人正を呼び、また山本勘介入道道鬼を呼び、床几の左右へ近々とふたりをさし招いて、何事か忙しげにささやき合っている。