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うえすぎけんしん
上杉謙信
吉川 英治
「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页
何か、附近で、異様な大声がしたので、ひとしく、そこに在った顔が、うしろを振向いたとき、
「信玄っ、そこかっ」
と、巨大な猛獣に踏み跨がった巨大な人間のすがたが、ふたつの眸では見きれないほど、すぐ前に大きく見えた。
――あっ。謙信。
ここにいた者は直感したにちがいない。帷幕のうちではあり、君側まぢかにいた人々はみな槍とか長巻とかの武器は持っていなかった。また一時に、
「すわ」
と、狼狽した味方同士のあいだでは、太刀を引抜く間隔さえお互いに保ち得なかったので、
「おのれッ」
ひとりの法師武者は、そこにあった床几を遠く投げつけた。
中ったか、中らないか、床几の行方も知れない。ただ雨の如く杉の葉がこぼれ落ちた。その巨杉の横枝へ、馬上の謙信のすがたは支えられたかと思われたが、屈身、一躍すると、もう混雑の人々の中へ放生月毛の脚は踏みこんでいた。
「くわッ」
と、響きがした。
謙信の口から発した声か、振下ろした小豆長光の音か、せつなに、一人の法師武者は、彼の切ッ先からよろよろと後ろに仆れ、陣幕の紐を断って仰向けに転がった。
しかし、それは、信玄ではない。――信玄は、身を避けて、あたかも藪の中へ胴を潜めた猛虎のように、双の眼をひからせて、謙信のすがたを見ていた。