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さぶ

さぶ

山本 周五郎

「週刊朝日」 1963(昭和38)年1月4日号~7月5日号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 210,521 字 · 415 页

青空文庫

伴れの男が云った、「あんないそがしい男は見たこともない」

「そのうちにですね、部屋のまん中に硯が置いてあるのが、ごく自然にみえてきたんだそうですな」と先の男が云った、「――そうなるともう動かせない、硯はほかのを使って、あれはあのままにして置くよりしようがないんだそうです」

二人がうしろから来て、追い越してゆくのを見ると、どちらも中年の僧であった。暢気なもんだ、生きる苦労なんか爪の先ほども知らないんだろう、と栄二は心の中で呟いた。小さいころ聞いたのだが、蟻を一疋殺すのは坊主千人を殺すのと同じだ、という俗諺があった。つまり僧が生産者ではなく「穀潰し」だという意味だろう、貧しい人たちの怒りのこもった言葉のようだが、栄二はいまそのとおりだと思うのであった。

「このままどこかへいっちまうか」と彼は呟いた、「誰にもみつからない山の中へでもいって、のたれ死をしてやろうか」

「あぶねえ」と喚かれた、「馬だぞ」

栄二はとびのきながら見た、荷をつけた馬とあぶなくぶっつかるところだったのである。馬の息とその強いけもの臭さとで、顔を包まれたように感じ、栄二は持っていた手拭で顔や首筋を押しぬぐった。