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けんなんじょなん

剣難女難

吉川 英治

「キング」大日本雄辯會講談社、1925(大正14)年1月号~1926(大正15)年9月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 243,807 字 · 482 页

青空文庫

六

と彼は身慄いして飛び退こうとしたが、袴の裾は床から伸ばした兄の手にかたく掴まれてしまっていた。

「騒ぐことはない。武士の家に生まれたは汝にとっては不倖せ、生恥かいて何の面目があろう、死ね! 頼みじゃ」

「あッ、兄上ーッ」

「ええッ情けない奴め!」

と枕元の脇差へ重蔵が手を伸ばした隙に、新九郎は色を失ってばたばたと玄関から表へ逃げだしてしまった。

六

夜更けの拍子木が廻った。正木作左衛門の角屋敷の黒塀へ、貼りついたような人影が、身動きもせずに佇んでいた。それは春日新九郎であった。

彼の頭には今、千浪に会うという一念より他なかった。今日、出がけに云われた兄の言葉も、世間も、武士道も、そんな意識は一切、恋の熔鉱炉へ流れ込めば燃える単一な情炎の色よりほか何物でもない。

今宵こそ千浪の部屋へ忍び込んで、この間から幾通もお常の手から渡した手紙に、返事もない不実を責めよう――と見廻ったけれど、越えられそうな場所がないので、彼はしょんぼりと塀に倚りかかって、彼女の姿を見る手段を考えていたのである。

ポトリポトリと若葉が降らす雫の音に、夜の静けさは増して行った。――とかすかに、ギーと啼くような木戸の音がして、屋敷の中から星月夜の薄暗がりへ、そっと抜け出して行く者がある。