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あおべかものがたり

青べか物語

山本 周五郎

「文藝春秋」1960(昭和35)年1月号~1961(昭和36)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 160,888 字 · 317 页

青空文庫

妻は息子と娘を生み、三十二歳で死んだが、死なれるまで彼は愛情というものを感じたことがなかった。妻のほうも同様であったか、硝子箱の京人形を見てもべつに気にしなかったし、彼に愛情があるかないかを知ろうともしなかった。

「芦が風を呼んでるだな」幸山船長はふと頭を傾けて云った、「――ちょっと外へ出て風に吹かれようかね」

私たちは甲板へ出た。

火鉢のある狭い船室から出ると、晩秋の冷たい夜気がこころよく肌にしみとおった。だらけたような肌の細胞の一つ一つが、新しい酸素を吸っていきいきとよみがえるのを感じた。

「そうさ、芦は風を呼ぶだよ」私の問いに答えて船長は云った、「見せえま、東のほうで呼んでるだ、東のほうから風が吹きだすだよ」

慥かに、船長の指さしたほうから、静かに微風が吹きわたって来るようであった。私はタバコとマッチを出して吸いつけ、船長にもすすめたが、船長は欲しくないと云って手を出さなかった。――月はかなり西に移ってい、空には雲の動きも見えた。岸の草むらでは虫の鳴く音がしきりに聞え、微風が芦をそよがせると、葉末から露がこぼれ、空気がさわやかな匂いに満たされた。