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うえすぎけんしん

上杉謙信

吉川 英治

「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页

青空文庫

私が――と伝右衛門自身歩いて、漸く捜しあてて来た井戸水であった。

「ああ、うまい。満足した」

柄杓の水を、約半分ほども、一息に飲んで、信玄はそれを桶へ返した。

からりっと、柄杓の柄が、桶の縁に鳴った。それが何らかの暗示でもあったかのように、彼の毛の生えている大きな耳がびくと立った。

「……はて。伝右衛門、其方には聞えぬか」

「何がでござりますか」

「異様なものだ……何がともいえぬが」

「鉄砲の音なれば、つい唯今戻って来る途中で耳にいたしましたが」

「いや、あれは、典厩信繁が陣地の臆病な哨兵が、何かを粗忽に見ちがえて、慌てて一発放したうろたえ弾だ。――そんなものではない、もそっと夥しく、しかも色もなく音もないものだ。何といおうか。この深い霧のながれの真白な闇が、惻々とわが陣営の上にそれを告げ迫っている心地がする。……そうだ、やはり兵馬のうごきだ。豊後っ、豊後」

幕口の一方に、四、五人の旗本たちと長柄を掻い持って警固に立っていた諸角豊後守が、はっと五、六歩出て答えた。

「要所の壕は掘り終ったか。土塁も築き終ったか。それともまだか」

「まだ、内藤殿の陣前、小笠原殿の陣の横などで、足軽どもが急いでおりますが」