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うえすぎけんしん

上杉謙信

吉川 英治

「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,102 字 · 256 页

青空文庫

「……ではその声かの? えいえいと喘ぐ声か」

と信玄はまた思い直して、しばらく床几に心を落着けようとしているふうであったが、また突如として、物見頭の望月甚八郎を呼びよせ、

「そちの手より放った物見共、雨宮の渡しや、小森方面の気配など、まだ何も告げて来ぬか。戻ってきた者はおるか」

と、たずねた。甚八郎は、

「まだ一名だに――」と、すこし恐縮して答え、

「自身、見てまいりましょうか」

と、信玄の顔を窺った。が、その時、信玄の感能は何ものに触れたのか、その大きな眼を空へつりあげ、からだも共に、床几からぬっくと起して、

「あら、思いがけなや」

と、ひとり大声にいった。

「まだ妻女山へ襲せた味方からも、何らの伝令もなし、物見もみな帰らぬというに、これへ敵上杉の軍勢の来るいわれはないが……何としてか! ……夥しいあの人馬の音は?」

彼のことばに、幕中の将士もみな耳をたてた。鏘々と甲冑のひびきが聞える。明らかに簇々と兵団の近づくような地鳴りがする。すわと、にわかに信玄のまわりは色めきたった。

「あわてるな」

信玄は、途端に、悠然たるものを示した。彼の顔色とその巨きな恰腹を見るとみな気が鎮まった。