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けんなんじょなん

剣難女難

吉川 英治

「キング」大日本雄辯會講談社、1925(大正14)年1月号~1926(大正15)年9月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 243,807 字 · 482 页

青空文庫

老鶯はその時だけちょっと啼きやんで歌口を憩めた。

「千浪殿、いつかはこうしてゆるりとお話致したいと思っていたが、あの……この間お常殿の手から渡した、拙者の文は見て下されたか……」

そう云った新九郎は、俯し目になって袂を膝に抱えている千浪の蠱惑よりほか、すべての世界を忘れていた……お常は用にかこつけて外したかここに姿が見えなかった。

「はい……」

と千浪は乱菊模様の金糸を一本抜いて、爪紅をした綺麗な指尖へ巻いたりほぐしたりしながら、襟足まで紅淡くした。

「ではお読みなされて下さったのじゃな。そしてそなたの返事は何とでござります。返事のないのはご不承知でござるか」

「いいえ……」

とかすかに答えた千浪は血の顫きに上逆って、男の手がふんわりと肩にからんだのも現であった。

「それでは誓って下さる? 誓って下さるか」

「新九郎様、お偽りではござりませぬか――」

「偽りならよいにと仰っしゃるか」

「いいえ、誠ならどんなにうれしゅうござりましょう」

とふッさりした黒髪が新九郎の動悸へ打つかるように投げられた。

お常は容易に帰って来なかった。――それでも無上の幸福感に酔った二人には、瞬くと思う間に陽が淡れて来た。