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けんなんじょなん

剣難女難

吉川 英治

「キング」大日本雄辯會講談社、1925(大正14)年1月号~1926(大正15)年9月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 243,807 字 · 482 页

青空文庫

「いいえ、何のそのためでありましょう、この涼しさになったのは、大奥にいる妹のためと妾自身のためより他にありませぬ。オオ、お庭先へまた大分お人が見えた様子、妾は、重蔵様へ一輪お手向けして、これでお別れ申しまする……」

と、芙蓉を盛った花桶をさげて、悲恋の涙を水晶の数珠に隠しながら淋しい姿で立ち去った。

引きもやらずくる人々、松平家の使者、また鐘巻自斎、それと小野忠雄、高弟の梶新左衛門も連れ立って来た。

その梶新左衛門には、新九郎が修業の当時、極寒氷の水を浴びせられた恩人である。その小野忠雄には、彼が酒色に沈湎していた頃、赤坂溜池のほとりで、馬上から青痰をかけられた恩人である。にもかかわらず、二人の武士は武士の礼を取りに来たのだ。

松平家の使者は、出立に際して、郷士扶持三百石の殿の墨付を餞別とした。家臣として迎えられぬのは京極家と公儀との手前、今日までの事情、是非のないことだが、忠房の心にはそれにも増したものがある。小藩福知山家の三百石は優なる破格だった。

間もなく、春日新九郎と千浪、由良の伝吉とこんがら重兵衛の四人は、数多の人々に見送られて品川寺を出立した。