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あおべかものがたり

青べか物語

山本 周五郎

「文藝春秋」1960(昭和35)年1月号~1961(昭和36)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 160,888 字 · 317 页

青空文庫

本当に病気だったこともあり、誰からともなく噂が耳にはいると、ようすをみにゆきたい、という抑えがたい衝動に駆られたものだ。しかし彼は、自分の中にある自分以上に強いなにかの力によって、そういう激しい衝動をきりぬけることができた。

「それでもたった一度だけ、側へよって口をきいたことがあるだよ」幸山船長は舵輪に凭れかかり、そっと頬笑んでいるような調子で続けた、「あれはそうさな、うちのおっかあが死ぬちょっとめえだっけかな、あのこが子供を伴れて、徳行からおらの船へ乗っただ、伴れているのは四つくれえの女の子で、おらあその子を抱いて渡り板を船まで渡してやっただ、あのこはあとから渡って、子供を抱き取りながら、すみませんねえって云った、おらも云っただ、いまでも覚えてるだが、今日はいいお日なみですねってよ」

幸山船長は口をつぐみ、岸の松林のほうをじっと見まもっていた。

「すみませんねえ」と船長は呟き声で繰返した、「――今日はいいお日なみですね」

彼が四十二の年に、彼女は死んだ。

それを知ったのは、六十日の余もあとのことであった。そのくらい姿を見せないことは幾たびもあったので、彼はかくべつ心配もしなかった。