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あおべかものがたり
青べか物語
山本 周五郎
「文藝春秋」1960(昭和35)年1月号~1961(昭和36)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 160,888 字 · 317 页
――彼女は紙に岸がん様と書いて、それを位牌とみたて、世間でにんきのわいているあいだは、欠かさず線香をあげていた。だが、にんきなどというものははかないもので、五六十日も経つともう誰もその話をしなくなり、みんな「そんなことがあったかしら」といったような顔をするようになった。
「ここまではいいんだけどさ、――聞いてるの先生」と栄子が云った。
私は答えて、自分の酒を啜った。
「そんな気のない顔をしないでよ、これからくやしい話になるんだから」と栄子は酒を呷って咽せ、咳きこみながら二つも三つもくしゃみをし、涙と水洟をたらし、それを浅草紙で乱暴に拭いてから、「こんちくしょう」とどなった。二つ以上くしゃみをしたときには、そう云わないと風邪をひくのだそうである。栄子はなお咳をして、喉の調子をととのえてから云った、「――くやしいじゃないの、岸がんのやつ生きてたのよ」
話のようすで、私もそんなことではないかと想像していたが、むろん口には出さなかった。
それからまる一年経った或る日、堀東のおでん屋へ一人の男が飲みにはいった。くたびれた背広を着、鞄を持ち、鳥打帽をかぶっていた。