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あおべかものがたり

青べか物語

山本 周五郎

「文藝春秋」1960(昭和35)年1月号~1961(昭和36)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 160,888 字 · 317 页

青空文庫

とまたお秀が云った、「ビールなんてもってえねえ、その燗ざましでたくさんだから、いいから飲ましてごらんよ、ばか踊りをやらしてみせるからさ」

客がなにか云った。その客が誰であったか、一人だったか伴れがいたか、私にはまったく記憶がない。私のところから見えなかったことは慥かであるが、どうも土地の者ではなく、よそから魚釣りに来た客だったように思う。

「さあ飲みな、留公」とお秀が云った、「がつがつするんじゃねえよ、みっともねえ、一杯だけだよ」

留さんがなにか云って、盃の酒を大事そうに啜るのが見えた。

「さあ、ばか踊りをやんな」とお秀は留さんの手から盃をひったくって云った、「うまく踊んなよ、そしたらまた飲ましてやっから、さあ踊るんだよ」

留さんは立ちあがり、手拭で頬かぶりをし、いかにもてれくさそうに笑いながら、やおら尻端折りをした。

――なんという女だ。

私は歯をくいしばりながらそう思った。留さんは踊りだした。てけて、どんどん、と自分で囃子を入れながら、――彦山夫人の言葉にもかかわらず、それは決して上手なものではなかった。尤も、私は里神楽で見たのと、新橋の幇間だった柳家連中の獅子舞で見たくらいの知識しかなかったが、――私は踊っている留さんから眼をそらし、いそいで勘定をして、逃げるように根戸川亭をとびだした。