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あおべかものがたり
青べか物語
山本 周五郎
「文藝春秋」1960(昭和35)年1月号~1961(昭和36)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 160,888 字 · 317 页
なんのふぜいもない、だだっ広いだけのその荒地のほぼ中ほどに、無人の、小さな、毀れかかったような古い社が、ひねこびた六七本の松に囲まれて建っている。いつのころかたいへん流行った弁天で、特に各地の花柳界の女性たちが参詣に列を作ったそうである。どういう霊験があったのか土地の者は知らない、ただひところばかげて流行り、夥しい参詣者の絶えなかったことと、当時その境内が別世界のように賑わったということだけは、子供たちでさえよく知っていた。
潮の匂いのする強い風に吹かれながら、沖の弁天のほうへ歩いていたとき、うしろからいきなり大きな声で呼びかけられ、私はとびあがりそうに驚いて振り返った。あの老人がすぐうしろにいた。継ぎはぎだらけの、洗い晒しためくら縞の半纏に、綿入の股引をはき、鼠色になった手拭で頬かぶりをしている。それはこの土地の漁師たちに共通の常着であるが、もう綿入の股引をはく季節ではなかった。
「おめえ舟買わねえか」と老人は私と並んで歩きながら喚いた、「タバコを忘れて来ちまっただが、おめえさん持ってねえだかい」
私はタバコを渡し、マッチを渡した。老人はタバコを一本抜いて口に咥え、風をよけながら巧みに火をつけると、タバコとマッチの箱をふところへしまった。