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あおべかものがたり
青べか物語
山本 周五郎
「文藝春秋」1960(昭和35)年1月号~1961(昭和36)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 160,888 字 · 317 页
元井エンジにも徳行泊りの番はあったから、そこに馴染の女がいたということも無根拠ではない。もしも彼にそんな覚えがないとすれば、ふじという女に会って、その実か否かを慥かめることができる筈だ。――当然、彼はそうすべきであった。それは極めてたやすいことだったから、――けれども、彼はそうはしなかった。犬儒派的にいえば、彼は賢者の知恵を持っていたとも考えられる。おさいの怒りと罵倒を聞いて帰ると、彼は自分の中にとじこもって、ぴったりと蓋を閉めたようにみえた。彼は蒸気河岸の裏長屋の一軒を借りて住み、自炊生活を始めた。船に乗っているときも、必要なこと以外には誰とも口をきかないし、長屋へ帰っても近所づきあいはしなかった。人を訪ねることもなく、訪ねて来る者もなく、暇があると、独りで将棋を指してたのしんだ。
彼の内部で、なにかが変りつつあった。水槽に小さな穴があいて、そこから水が漏るように、彼の中から、なにかが少しずつ漏れ、漏れただけべつのなにかが加わってゆく、というようなぐあいだった。他人とは口をきかないが、彼はいつかしら、絶えず自分と話をするようになった。
仕事が終って家へ帰ると、彼は雨戸の前に立停り、ちょっと雨戸を見まもっていて、それからゆっくりという、――この戸をあけよう。