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けんなんじょなん
剣難女難
吉川 英治
「キング」大日本雄辯會講談社、1925(大正14)年1月号~1926(大正15)年9月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 243,807 字 · 482 页
ほっと息を入れて、初めてそのところの黒い影を見た重兵衛。
「どなたさまか存じませぬが、思いがけないお助太刀、有難うございました」
と血刀置いて額いた。御方は、ただ軽く頷いて見せたが、調子を変えた作り声で、
「ご丁寧な礼には及ばぬこと、仕返しの意気地、天晴れなお志と見て助太刀いたした。少しも早く、その者の首を切って、生不動の親分とやらに手向けておやりなされ」
「や、どうしてそれをご存じでございますか」
御方は、つと、覆面の顔を反向けて、
「とにかく、ここは急いで立ち去るが御身の為じゃ、くどいことは訊いて下さるな」
こんがらはそれに取りつく言葉もなく、久八の首を切って片袖につつみ、兄弟分せいたかの遺物の髻を懐に入れ、前もって、新九郎に言い渡されている言葉通り、夜に紛れて、江戸から高飛びしてしまった。
四
昨日今日、忍ヶ岡の花の雲は、八百八町どこからも、薄紅色の衣をたなびかせた天女のように見えはじめて、遠くの富士と一対の美景になった。
鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春。――その大江戸の花はここ三日と、出るわ、出るわ。町方の女房娘、若衆芸妓の花見小袖、目かつらの道化、渋い若旦那、十徳の老人、武家は編笠、町奴は落し差し、猫も杓子も、ぞろぞろと東叡山上野の丘へ登って行く。