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あおべかものがたり
青べか物語
山本 周五郎
「文藝春秋」1960(昭和35)年1月号~1961(昭和36)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 160,888 字 · 317 页
へ帰って来てからそのことを聞いて、うれしくって、泣いちゃったのよ」
おさいはすばやく眼をぬぐった。彼はなお表情を変えなかった。彼は謙虚な自尊心をもっていた。それは決して他人に気づかれることのないところで、ひそかに、しかし誇り高く保たれて来たのだ。――おさいが彼にあいそづかしを宣告してから、周囲の者のあてつけやかげぐち、嘲笑やおひゃらかしの集中攻撃を受けた。見たこともないおふじという女についても、あくどいほのめかしや皮肉をずいぶん云われたものである。――けれども、それらのすべてを謙虚な自尊心で受けながしたように、いまおさいの訴えに対しても、彼は漠然と微笑するだけで、おさいを責めたり、自分の立場のつらかったことを並べたりしようとはしなかった。
「あたし、いつでもいいのよ」とおさいは低い声で云った、「あとは云わなくってもわかるわね、あたしたちうまくいくと思うわ」
彼はやはり黙っていた。
「きっとうまくいくわ」おさいの声には確信がこもっていた、「あんたの都合でいつでもいいのよ、あたしの気持、わかるでしょ、わかってくれるわね」
彼は一割がた微笑をひろげ、片手をゆっくりとあげて、その指先をひらひらさせた。