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あおべかものがたり

青べか物語

山本 周五郎

「文藝春秋」1960(昭和35)年1月号~1961(昭和36)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 160,888 字 · 317 页

青空文庫

娘の婚家は根戸川に近いので、幸山船長の乗った船が通ると、彼女は土堤まで出て来て姿を見せた。通船の排気音やエンジンの音は、それぞれに特徴があって、馴れた耳で聞くと何号船かということが判別できるという。娘は十七号船の音が遠くからわかるのだろう。ときにはあねさまかぶりに襷をかけ、裾を端折ったままで、――たぶん洗濯かなんかしていたのだろうが、――あたふたと土堤へ駆けだして来たりする。出て来ても手を振るとか声をかけるなどということはない、船のほうを見るようすもなく、ただ船の通り過ぎるあいだ、自分がそこにいることを彼に見せ、また、さあらぬ態で彼のほうをひそかに見るのであった。船がそこを通過するのに約五百メートル、二人がお互いの姿を見ることのできる区間は約三百メートル。川を遡航する時間は長くて五分くらいだし、くだりのときは三分たらずであるが、その水上と土堤との短くはかない、けれども誰にも気づかれることのない愛の交換は、若い彼にとってこの世のものとは思えないほどのよろこびであった。

やがて十七号船は荷物専用になり、彼は十九号船に移った。そのあいだに一度、五十日あまり彼女が姿を見せなかったことがあった。