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あおべかものがたり

青べか物語

山本 周五郎

「文藝春秋」1960(昭和35)年1月号~1961(昭和36)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 160,888 字 · 317 页

青空文庫

そのうちに、葛西汽船の三十二号から、一人の少年があらわれ、渡り板を踏んで岸へあがると、そこで草履をはいて「千本」の店のほうへ来た。少年は痩せたすばしっこそうな躯つきだし、色こそ汐やけで黒いが、おもながの顔は眼鼻だちが際立っていて、美少年といってもいいだろう。ことにはっきりとした眉毛と、澄んでいるが少しばかり狡そうな眼つきが、その相貌をひきたてていた。

「酒をもう一升」と少年は「千本」の店へはいってどなった、「野口エンジに付けといてな」

店の奥から二女のおすみが出て来た。

「あら銀ちゃん」とおすみが云った、「おめえまだ船にいたのか」

「野口エンジに一升」と少年は云った、「佃煮かなんかくんなってよ」

店先の縁台から、よういろ男、と少年に呼びかける者があった。

「銀公か」と将棋を見ていた船頭の一人が云った、「三角のお吉はどうした、もうものにしちゃったか」

「昨日だっけ」と端の縁台で酒を飲んでいた中年の蒸気乗りが云った、「安田屋のおつゆがまた草履を呉れたってえじゃねえか、年もいかねえくせにてえした腕だな」

少年は振り向きもせず、口もきかなかった。その顔には誇らしい自尊心と、おとなたちに対する軽侮と優越感とが、少年らしいなまなましさであらわれていた。